おたくと空間

 ご存知の方は多いと思いますが、下記のようなリストがあります。

・【米沢嘉博の仕事:暫定版】─少女漫画関係を中心に
   http://www.toshonoie.net/shojo/05_list/yonezawa_yoshihiro_list.html

 あまり知られてませんが、私、こちらのリストに協力させていただいております。このリストは作られなくてはならないと思っていたので、喜んで協力させていただいております。その作業の過程で、私の知らなかったことが出てくること出てくること。
 作業の関係もあって、おたくの歴史みたいなものに興味があり、昨年の日本マンガ学会著作権部会の例会に出席、霜月たかなかさんの特別報告を聞かせていただきました。その時に↓の本を出す予定と伺いました。

コミックマーケット創世記 (朝日新書)

コミックマーケット創世記 (朝日新書)

 刊行を待っていた本でしたので、発売日に購入しました。すでにいくつかの感想があがっていますのでくわしい感想は検索してみてください。
 と、つれないことを書くのは私自身の感想はまとまらないからです。細かい点*1はともかく、読後すぐに思ったのは「原田史観だなあ」ということです。恣意的なCOMの出し方にそう思ってしまいます。他の方が書いてももちろんCOMやぐら・こんは出てくるでしょう。でも、たぶん他の方が書いたらぜんぜんちがう出し方になったと思います。うまく言えないけどコミケット側の証言というカンジがしました。コミケット側といってもC12までのコミケットであり、今はもう変質してしまっているものと思います。COMのほうから見たらぜんぜんちがう見方になったのではないでしょうか。

 まとまらない部分はともかく、私がこの本の中で1番考えさせられたのは全文掲載された「マニア運動体論」です。米沢さんのリストの調査で「漫画新批評大系」を見せていただく機会があり、多少は目を通していましたが、まとめてきちんと読んだのははじめてです。
 マニ体論は、いろいろな条件を設定した空間を出してきています。まんがを愛する「ぼくたち」がどうやってまんがにコミットしていったらいいのかということが縷々書かれています。そのためには批評によって空間を作り出していくことが必要だというようなことが熱く書かれます。
 今だったらコミュニティとか言われるようなものだと思うのですが(当時も使われていた言葉だと思います)、それを避けて「空間」という言葉が使われています。


 で、話は変わって、最近↓の本が文庫化されました。

趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

 元版は発売直後に購入・読了しています。楽しく読んだものの守備範囲外なのですっかり忘れていました。増補されたというので文庫版を買い、読みなおしてみました。
 「第三章 なぜ家電はキャラクター商品と交替したか」で、大阪万博のお祭り広場で、建物のシェルター機能*2と建物の存在意義を表す表象機能が分離したとして、そこからオウム真理教サティアンの話になります。*3
 その後に「オタクの空間感覚」という節で、おたくがいかに趣味に特化して個室を作りあげているか、空間に対する感覚が欠如しているかが書かれます。

 森川氏がヴェネチア・ビエンナーレコミッショナーをされた時の展示タイトルが「おたく:人格=空間=都市」でした。

 2004年にこのタイトルを見た時、何かを考えさせられるということはなく、著書のコンセプトを展示にしたものかなくらいしか考えませんでした。イタリアまで行く予定もなかったし(凱旋展は鑑賞しました)。
 改めてこのタイトルを見るとなかなか本質をついたタイトルのような気がしてきました。テキトーに考えた類似タイトルと並べてみるとわかると思います。「人格=都市」とか「趣味=都市」とか。ここに「空間」があることによってバーチャル(というより脳内のほうがしっくりきます)なものとの接続ができています。・・・・・・って今さらですか。遅くてすみません。

 空間に対する感覚の欠如しているおたくが作り上げた空間が箱庭的に展示された時、マニ体論の「空間」との落差をひしひしと感じました。マニ体論自体は、熱意にあふれた理想的で素朴なもので、絶対視しなくてはならないというものではありません。でも、この時代にこういう理想を掲げた人たちがいたというのは記憶されるべき大切なものだと思います。
 そういうものですから今の状況とちがうのは当然でしょう。30年という月日が流れ、マニ体論に出てくる「まんが世代」以降の世代も厚くなり、読者のありようも変わっています。

 それでもマニ体論に立ち返って考えていると、ここで書かれたものはある程度実現していると思います。まんが批評はジャンルとして定着したと言っていいと思うし、同人誌やネットの普及によりまんがにコミットしたいと思う人ならば、プロの書(描)き手・編集者じゃなくても関われる状況になっていると思います。

 空間は作られ、都市にまでなったと言えます。
 しかし、これがマニ体論の描いた空間なのだろうかというと、なんだか遠いような気がするのです。使っている「空間」の意味あいもちがうし、時代も違います。だから比べるのもおかしいくらいでしょう。遠くて当然だし、違って悪いということではありません。ただ、「ぼくら」はマニ体論の書いたとおりには進めなかった。それはいつからなのか、どうしてなのかについて考えずにはいられないというだけです。

 まとまりませんが、こんなことを考えさせられた2冊でした。

    ★

 ↑に入れようとして入らなかったことを付記します。
 マニ体論には「マンガ資料館の設立」の必要性が書かれています。じわじわと発表されつつある「米澤嘉博記念図書館(仮称)」や「同人誌図書館」は、米沢さんの遺志があるからこそ実現しつつある計画と推察されます。その遺志は、マニ体論というよりも迷宮がつくりあげたもの他ならないと思います。
 こうした状況だからこそ、30年以上経った今、実現にむけて尽力している人たちがいることに心動かされました。


*1:佐川氏がJUNE創刊時から編集長であるかのような書き方がされているところや「てんたくるず」がカタカナ表記になっているところなど

*2:私の理解では、ここでのシェルターは避難壕という意味に加えて、雨風を避ける機能くらいの意味もあるように思える

*3:ついで書くと、p.159の図34は信者の制服の図版のはずなので、図35と同じキャプションなのは誤植と思われます。